「あしなが育英会東北事務所」開設 仙台に「東北レインボーハウス」を

東北事務所開設 地震津波遺児を長期的支援へ
震災から2年以内に仙台に「東北レインボーハウス」を

 東日本大地震津波で親を失った子どもたちを長期にわたって物心両面での支援をするための拠点として「あしなが育英会東北事務所」を仙台市に開設しました。4月11日の開所式には、神戸から阪神・淡路大震災遺児の高校生・大学生や東京で留学中のインド洋津波遺児らが参加しました。また、本会運営の「神戸レインボーハウス」と同様に、東日本大地震津波遺児の心のケアセンター「東北レインボーハウス(仮称)」を震災から2年以内に開設したいと考えています。なお、今後は「特別一時金」などの情報を伝えるために、遺児の学生と職員らがチームを組んで本格的に被災地回りを始めます。
 また7日、東日本大地震津波遺児への「特別一時金」の支給を開始しました。第1回の支給は6人で、指定の口座に送金しました。今後も審査が完了次第、毎週月曜日に送金予定です。なお、「特別一時金」申請書の請求があった遺児数は252人です(11日正午現在、最新人数はこちらへ

あしなが育英会東北事務所開所にあたって
あしなが育英会会長 玉井義臣
 犠牲になられた方々に心から哀悼の意を捧げ、被災をされたみなさまにお見舞いを申し上げます。
 今日開所する「あしなが育英会東北事務所」は、まず、親を失った0歳から大学院生までに返済不要の「特別一時金」を一日も早く支給するために全力を注ぎます。遺児の学生と職員らで被災地を回って、情報が遺児のもとに届くように努めます。また、遺児への心のケア活動をスタートする準備にも取りかかります。神戸では、震災から4年後に遺児の心のケアの家「神戸レインボーハウス」を建てました。東北にもこの震災から2年以内を目標に、仙台に「東北レインボーハウス」を開設したいと考えています。
 昨日、津波の被災地にうかがいました。最愛のお父さんやお母さんを亡くした、あるいは、いまなお行方不明の子どもたちは深い悲しみのどん底に突き落とされたまま、一筋の光すら見つけることができない日々ではないかと思います。胸が張り裂けそうです。
 犠牲者・行方不明者数は、現在までで阪神・淡路大震災の4倍以上です。平日の午後だったので多くの子どもが助かったと聞いています。今回の特別一時金の申し込み人数は、すでに252人にのぼることからも、東日本大地震津波で親を失った子どもの数は、千人以上に達することは間違いない状況です。私たちは、この16年間、約600人の阪神・淡路大震災の遺児たちと共に生きてきました。
 そして、今回の東日本大地震津波で親を失った子どもたちとも、共に生きていきます。神戸のときも当時0歳だった子が大人になるまで寄り添う決意をし、それを実行してきたように、今回の大地震津波で親を失った子どもたちにも長期にわたって、本格的に物心両面での支援を行います。あしなが育英会の最も大切な業務として、ここに一点集中し、すべての力を集結して、子どもたちの支援に取り組むことを宣言します。
 神戸の当時小学5年生の男の子が描いた「黒い虹」を「七色の虹」へという思いで「神戸レインボーハウス」を運営してきました。今回の大地震津波で親を失った子どもたちの心にも、いつの日か「七色の虹」がかかるように全力を注ぎます。しかしながら、被災地は広い範囲に及び、私たちの力には限りがあります。地域のみなさま、どうか温かいご支援を賜りますよう切にお願い申し上げます。

阪神・淡路大震災遺児からのメッセージ】

共に生きる 福井 友利(甲子園大学3年)
 私は4歳の時に阪神・淡路大震災でお母さんを亡くしました。4歳の私にとってお母さんの死ということを理解すること、受け入れることはできませんでした。大きくなるにつれてお母さんの死を理解できるようになると、寂しいと感じることが多くなりました。
 私のそんな寂しさを紛らわせてくれたのが、あしなが育英会や神戸レインボーハウスで出会った方々でした。自分と同じように親を亡くしたお兄さんやお姉さん、友だちがいて、自分の寂しさを話すことができたり、思う存分遊ぶことができたり、私にとってレインボーハウスは無くてはならないものでした。
 昨日、石巻の避難所で小学6年生の女の子と遊ぶ機会がありました。その時、その子はすごい勢いで地震のこと、家族のこと、卒業式をしたいことなどを私に話してくれました。私は、自分の中の思いを話せる場所が今、ここには無いと感じました。
 今回の東日本大震災でも、私と同じような、私とよりも辛い思いをしている方たちがたくさんいると思います。でも、今、その寂しさや辛さを誰にも話すことができず、自分の中に溜め込んでしまっている人たちがいます。その溜め込んでいるものを吐き出せる場所の一つがレインボーハウスです。
 無理に今の現状を受け入れる必要は無いと、私は思います。でも、一人じゃんない、仲間がいるということを感じてもらうことが大切だと思います。
 阪神・淡路大震災から16年、共に生きてきてくださった方がいるように、今度は私たちが東北の方々と共に生きていきます。

遺児として 辻 健太(兵庫県伊川谷北高等学校3年)
 仙台に来る前は、新聞やテレビで被災地の現状を知りました。日々、報道される被災者や亡くなられた方々のニュースにより、ある程度、その家族のことを考えていました。
 そして、今回、被災地を廻って、初めは、災害があったとは思えないほど復旧が進んでいる場所につきました。しかし、臨海側に行くにつれ、ガレキや廃車、泥が増え、気がつけばガレキの山の前にいました。
 海なのか、ごみなのか分からない強烈な異臭が漂う中、懸命に生きている人たちを見たとき、とても圧倒され、尊敬さえ感じました。
 僕が出会った被災者の人は、お年寄りや子どもを含め、笑顔で明るく、とても元気そうでした。しかし、実際に話してみると、恐怖や不安、悲しみや怒りの言葉がどんどん出てきて、いつもいつも、そんな感情にさいなまれているんだと感じました。また、小さい子どもたちを見ていると、小さくて、危なげな自分を見ているようで、すごく胸が苦しかったです。
 僕は、16年前の阪神・淡路大震災で父親を亡くしました。小学校の時は人との関わりが辛くて不安定だったけど、友人や、レインボーハウスの大学生や職員の方々が遊んでくれたり、話を聞いてくれて、今の自分がいます。今は、高校3年生になり、学校の生徒会活動をしています。僕には、まだ出来ることは少ないけれど、どんなに些細なことでも、全力でサポートしていきたいと思います。そして、遺児だからこそ伝えられることを伝えたいです。
 僕は、遺児になることは、強い心を持った人間になれるかどうか、人として、大きな境界線に立つことだと考えています。この先、遺児には多くの壁があると思います。だけど、一つ一つ打ち勝っていくことで、僕が今まで見てきた遺児の先輩のように、強くて優しい人間になれると信じています。
 今回の震災の遺児たちにも、そうなってもらいたいと強く願っています。これから僕にできることを、一生懸命がんばって行こうと思います。